May 16, 2010

31周年

31周年1年前のエントリー30周年では、アニメーター初日を振り返りましたので、今年はそのプリクエルです。前に書いたように、ある人の紹介で業界入りしたんですが、その恩人はいまだ現役のベテランアニメーターで、マイティ井上さんとしておきます。話は1977年まで遡ります。

マイティさんとの出会いは、高2の夏だったと思います。三越名古屋店はその頃、オリエンタル中村というデパートだったのです。そこで「夏休み子供アニメ教室」ってイベントやってました。講師は「キャンディキャンディ」の作監ということで、友人のM田と見に行きました。いい年なのでアニメ教室を遠目に見て、休憩時間に講師の方を伺いました。マイティさんです。名前はTVで知ってました。1965年に東映動画の狭き門を突破して入社し「わんぱく王子」の動画から担当したベテランです。「こういう仕事に興味ある?」と聞かれ「あります」と答えました。「そうかあ、僕、育てたいんだよなあ。じゃあ、明日は星ヶ丘店にいるから絵見せて。ラクガキでもいいから。描きためたのあるでしょ」ということで、突然アニメーターへの門が見えてきて、この瞬間アニメーター志望になりました。アニメーターになりたくて活動していたわけでもなく、降って湧いたんです。

そもそもアニメーターという職には疎かったです。巧いアニメーターの名前は大勢知ってましたが、雲の上の存在というか。高校の友達が「アニメーターになりたい」ってのを聞いても、現実味を感じませんでした。まったく遠い世界でまるで接点もないし、なれるものだとは思ってもいませんでした。それよりは吉本に入りたかったんですよ、その頃は。でも、なれるもんならなりたい。絵を描くのも好きでだし、映画も好きだし、アニメも好き。それが仕事にできるなら凄いことだと。ダメモトで絵を見てもらおう!描きためた絵なんかないですから、その日は徹夜でラクガキをいっぱい描きました。デッサンぽいものや、アニメの模写などをラクガキ帳に描きました。翌日はM田と絵を持って会いに行きました。プロに絵を見せるなんて恥ずかしくてドキドキです。二人とも「始めるなら早い方がいい。高校卒業したら東京においで」と言われました。門は開かれました。もちろん、親は反対しました。今度はオレとM田がそれぞれオカン同伴で東京に会いに行くことになりました。

待ち合わせ場所はひばりヶ丘ボウル。ロビーに到着すると支配人らしき人が「マイティさんはこちらです」と案内されました。マイティさんはゲーム中でした。マイティさんの輝かしい戦績も展示されていました。マイティさんはセミプロのボウラーでもあったのです。マイティさんに会うには家よりもひばりヶ丘ボウルだし、連絡をとるにもひばりヶ丘ボウルでした。アニメ業界では、ボウラーとして知られていたようです。その後マイティさんのお宅へお邪魔すると、奥さんと娘さんがいらっしゃいました。決して広くはないアパートには、ボウリングの大会で獲た景品やトロフィーがズラリ。二人の親は不信感が募りましたが、マイティさんの熱心な説得と自信に、半信半疑のまま「よろしく」みたいな方向になりました。進学のために通っていた河合塾も退学し、高校卒業までの1年余り、デッサンにいそしむことになりました。
アニメーターになるにしても、親は心配だったようで、専門学校はどうか?ということになりました。そこで、翌年からアニメーション学科が新設されるという東京デザイナー学院名古屋校にオカン同伴で面談に行きました。M田とオカンも一緒です。面談に応じた東デの先生はグラフィックデザイン科の講師で「アニメーターでは食えないから、アニメ科でなくグラフィックデザイン科を選びなさい」ってことでした。それじゃ意味ねえし、マイティさんの「東デに行くより、すぐ始めた方がいい。僕に任せて」というアドバイスに従うことにしました。東デは却下です。

マイティさんに弟子入りするということは、どこで修行するんでしょう?ひばりヶ丘ボウルでしょうか。マイティさんも「育てたい」って言ってましたが、フリーの身。高校卒業を控え、卒業生名簿に就職先を記載しなければならないので、電話で聞きました。そしたら「アーツプロって書いといて」と言われました。アーツプロはアニメの音響プロダクションです。アーツプロ内にマイティさんの仕切りで作画部を設けるってことでしょうか。だから高校の卒業生名簿には就職先がアーツプロになってます。ほとんどの人が劇団だと思ってたようです。

ところが4月になってもマイティさんから連絡はなく、名古屋でずっと待つ日々。上京したことになってますから、友達に見つかると気まずい。でも地下街とかうろついてると見つかったりして、「東京の劇団に入ったんじゃなかったの?」って驚かれました。

やがてマイティさんから連絡があり、見捨てられたんではないことがわかってホッとしました。「アーツプロではなくスタジオエイトになった」とのことで、どんな事情でそうなったかは知りませんが、びっくりしました。ただし、工事してるからもう少し待つように言われました。マイティさんは自分で育てるつもりだったんでしょうが、それができなくなり、エイトにブッキングしてくれたんだと思います。アパートも手配してくれました。

エイトへの受け入れ体制が整い次第上京し、合流したマイティさんに連れられてエイトへ。その日のうちに場所を与えられました。それが1979年の今日です。マイティさんは「たまに様子見に来るから」と言ってましたが、現れることはありませんでした。マイティさんとはその翌年、サンライズのTVシリーズ「009」の打ち上げで再会しました。スタジオエイトではギャラが遅配されるようになった頃です。「エイト危ないんだって?だめじゃない、言わなきゃ」とマイティさん。マイティさんは今もTVで名前を見ることがあり、現役でがんばっておられるようです。しかし、ホームだったひばりヶ丘ボウルも今はなく、どこで投げているんでしょうか。

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Posted by A.e.Suck at May 16, 2010 11:27 PM





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